1/1 故人へ捧ぐ
私が2軒隣の彼女と出逢ったのは、私が白の時代の1年目に入ろうとしていた時の10年前。
雨の日も風の日も、身の危険を感じる台風のような時以外は、彼女はいつも畑仕事をしていた。
いつも無農薬の美味しい野菜を育てては、近所の皆さんに新鮮な野菜を嬉しそうにお裾分けしてくれた。
彼女は、1919年4月3日生まれ。戦争の時はご主人の仕事について満州に行った関係で、中国語もペラペラで、90を過ぎた身体で親族とグアム旅行を楽しむ粋な可愛いおばあちゃん。
娘や息子を可愛がってくれ、子供達が受験に合格した時は、自分の年金からお祝いを渡してくれた。
98歳になった頃ぐらいから、足を痛め自宅療養し、畑で会うことは無くなったし、道で出会うことも殆どなくなった。
12月初めに、ふと車椅子の彼女が病院から出てくるところでお会いした。
おばあちゃん、お久しぶり。元気?
、、、なにかモゴモゴと言っていたが、付き添いのご家族が、このままもう1件病院に行かないといけないのでと、少し私と挨拶をして、彼女を病院へ連れて行った。
それから、数週間後、彼女は、100歳8ヶ月で亡くなった。
ご親族の方とその後お話をしたら、彼女が親族と医療関係者以外で、最後に会ったのは、私であったと。私も1ヶ月に1週間しか戻って来れないリズムで、地元の方にもお会いする機会もないのに、さらに彼女に会うことは、本当に巡り合わせしかないと感じていた。
その後分かったこと、、、
❶彼女と私は、絶対反対キンパート2の間柄だったこと
❷去年私がマヤに出逢って、初めて鏡の向こうキンに会ったのが、私の絶対反対キンパート2の日だったこと
❸彼女の年回りキンが私の絶対反対キンだったということ
❹彼女が亡くなった日は、彼女の年回りキン、つまり私の絶対反対キンだったこと
絶対反対キンとは、その相手と出逢った時、また出逢っていた時は、その関係性に気づいた時に、人生がリセットされ再スタートすると言われています。
また絶対反対キンパート2は、それがさらに強い意味合いで起こると言われています。
年末に四十九日を終えていない彼女の仏前にお参りに行きました。
ほんの10分程の滞在中、私が退席するときには、供花の菊の花びらが花吹雪のように沢山散っていました。故人からのメッセージだと感じました。
絶対反対キンパート2に出逢ったのは、おばあちゃんが初めてでした。そして、それは私の再出発の汽笛となりました。何が再出発なのか深く深く考えました。
おばあちゃんという存在は、ただただ生きて、好きなことをしていました。その姿が周りを幸せにしていました。その輝きは100歳になっても衰えていませんでした。
私はおばあちゃんから、あるがままに生きること、それだけで周りを助けることが出来ることを、教えてもらいました。
2021年1月1日。
自分がワクワクすることをしているだけで、周りの人を元気づけることが出来る。
私もそうありたいし、そうなれるように、マヤ暦を沢山の方にお伝えしていくことを宣言します。
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